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【アウトドア部】相模原を基点にアウトドアを愛する、体育会系の部活動です。


アウトドア部の活動の告知や報告などを行います。
by outdoor-bu
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アウトドア部 部員募集中!!
 相模原市内在住、在勤はお構いなく、アウトドア好きの方で部員の紹介があれば誰でも参加できます。現在部員は50名弱年齢層は30代が多いかな。
 毎年、花見・BBQ・キャンプ・釣り・素もぐり・ジェットスキー・スキー&スノボー・山登り・ほたる鑑賞・ハイキングなどを通して自然を愛し、日ごろのデジタルな生活からスローライフを取り戻そうという部活動です。
 部員はみな、それぞれに独立な生活を送っており、それぞれが今までの人生で体験したすばらしいものをまた他の部員にも体験してもらおうと言う主旨で、それぞれが独自に幹事になり、運営を行っております。
 「自然を愛することは、晴れの日も、雨の日も、雷の時も同等に愛することだ」とネィティブ・アメリカン(インディアン)は言った。晴れの日しか愛せないのは、自分の都合を望んでいるだけで、自然そのものを受け入れ愛することではないという。本当の意味で自然を愛することで、今より心の生活が豊かになれば・・。そう考えて運営してまいります。
どうぞこれからも宜しくお願いします。
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海援隊(←武田鉄矢じゃないよ)の巻

 元は、勝海舟の海軍操練所だが、池田屋事件(多くの志士が新撰組によって摘発・惨殺された)に海軍操練所のメンバーが関わっていると幕府から疑われ、海軍操練所は解散します。

 そこから新たに薩摩藩・越前藩から資本の援助を受けて、亀山社中とう長崎県の亀山に事務所を置く、日本で始めてのカンパニー、会社を設立。これが、日本では初の株式会社といわれています。

 その後、土佐藩の「土佐商会」の責任者後藤象二郎(のちに徳川慶喜に土佐藩代表として、大政奉還を建白)と手を組み、亀山社中は「海援隊」へ。これは、土佐藩の外部組織という形でした。社員の多くは、土佐藩の外部団体になることに反対でしたが、当時、社員の給料もろくに払えないような状況で、龍馬も苦肉の選択でした。

 一方土佐藩としては、薩摩・長州に大きく時勢で後れを取っている為に、当時維新の第一人者坂本龍馬を手中に納めることで、一躍政局に躍り出ようとしたのです。

 両者の利害は一致し、海援隊発足の直後の4月23日、海援隊の「いろは丸」と紀州徳川藩の「明光丸」が瀬戸内海の六島付近で衝突するという事故が起きました。船員・乗客こそ全員救出されたものの、いろは丸は沈没して全ての積荷を失ってしまいました。

 龍馬はすぐに談判(裁判)を起こして、前例のない裁定を巡って幕府の御三家と真っ向から対立したのです。江戸時代安定の頃なら、徳川御三家相手に有り得ないことです。普通は泣き寝入りでしょうね。

 しかし、海援隊側は「万国公法」を盾として争い、薩・長・土の後援もあって裁判に勝利、賠償金として約80000両を紀州藩に払わせました。この一件で龍馬と海援隊の名は広まり、後年の海難事故の判例ともなりました。

 そして、大政は奉還され、その一ヵ月後、坂本龍馬は謎の刺客に討たれます。

 主の失った、海援隊はであるが、龍馬生前から実務は同郷の岩崎弥太郎に任されており、後藤象二郎は、幕末に急激な洋装武装に掛かった費用などの借金を海援隊ごと、全て岩崎弥太郎に押し付けてしまいました。弥太郎は、紀州徳川藩との「いろは丸事件」の補償金8万両を元に借金を返済し、維新後の明治4年(1871)の廃藩置県によって正式に独立商社として成立しました。これが現在の三菱グループです。

 岩崎弥太郎は相当、金に細かく、そろばん弥太郎と言われるほどであったといいます。江戸期に実績を積み上げてきた三井・住友・安田などの大財閥と、裸一貫で明治からの創業となった三菱が肩を並べるまでに成長したのは、経済界における維新の奇跡とも言えるでしょうね。

 ちなみに、三菱のダイアモンドマークは、土佐山内家の紋「三葉柏」と岩崎家の「三階菱」を合成したデザインだそうです。

by outdoor-bu | 2007-01-18 08:52 | ryoma sakamoto
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