【アウトドア部】相模原を基点にアウトドアを愛する、体育会系の部活動です。


アウトドア部の活動の告知や報告などを行います。
by outdoor-bu
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ryoma sakamoto
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アウトドア部 部員募集中!!
 相模原市内在住、在勤はお構いなく、アウトドア好きの方で部員の紹介があれば誰でも参加できます。現在部員は50名弱年齢層は30代が多いかな。
 毎年、花見・BBQ・キャンプ・釣り・素もぐり・ジェットスキー・スキー&スノボー・山登り・ほたる鑑賞・ハイキングなどを通して自然を愛し、日ごろのデジタルな生活からスローライフを取り戻そうという部活動です。
 部員はみな、それぞれに独立な生活を送っており、それぞれが今までの人生で体験したすばらしいものをまた他の部員にも体験してもらおうと言う主旨で、それぞれが独自に幹事になり、運営を行っております。
 「自然を愛することは、晴れの日も、雨の日も、雷の時も同等に愛することだ」とネィティブ・アメリカン(インディアン)は言った。晴れの日しか愛せないのは、自分の都合を望んでいるだけで、自然そのものを受け入れ愛することではないという。本当の意味で自然を愛することで、今より心の生活が豊かになれば・・。そう考えて運営してまいります。
どうぞこれからも宜しくお願いします。
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剣術の達人!?

今日の坂本龍馬は、坂本龍馬は剣術の達人だったかどうか!?です。

坂本龍馬は、18歳の時、土佐の日根野道場にて「小栗流和兵法事目録」を伝授されています。そして、東京へ剣術修行に出て東京の千葉道場へ入門しました。

その後、北辰一刀流長刀兵隊法目録を与えられ、千葉道場の塾頭にまでなったといわれています。

しかしながら、生涯を通じて、実際にその刀を使って人を殺したことは無いと言われています。また、寺田屋襲撃事件の時も刀ではなく、当時高杉晋作に貰ったピストルを使用していますし、近江屋で刺客に襲われた時も、手元に刀を引き寄せていなかったからといわれていますが、あっという間にやられてしまいました。

また、小栗流・北辰一刀流の目録は現存しておりません。土佐の実家で火災にあって紛失したとも言われています。

坂本龍馬は、本当に達人だったのか?疑問も残るところですが、刀は抜かずとも、その人の「気」を外すのはうまかったようです。「気と気がぶつかれば喧嘩になり、切り合いになる」ということを良く理解し、喧嘩を避けていました。

新撰組などに出会っても、戦ったり、逃げるのではなく相手の懐に飛び込んでしまい、剣客の毒気を抜くために、切り合いにはならなかったといわれています。

議論に対しても、「議論などは、よほど重要なときで無い限りしてはならない。もし、議論に勝ったにせよ、相手の名誉を奪うだけのことだ」と自分に言い聞かしていたようです。

現代にも通じる言葉ですね。
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# by outdoor-bu | 2007-01-18 08:58 | ryoma sakamoto

日本初新婚旅行!の巻き

龍馬は、寺田屋襲撃事件の後、右手親指の傷の具合が良くなく、しばらく安静状態であったようです。薩摩藩邸内でお龍の看病を受けています。お龍は医者の娘であった為、看病には、慣れていたようです。この看病してる間に龍馬とお龍の間の感情が、深い愛情へ変化していきました。ひと時の安心感が、結婚など生涯する事は無いと考えていた龍馬の心を動かしたようで。程なく二人は結婚します。

その後怪我の状態も安定し、薩摩の西郷隆盛の勧めもあって、九州鹿児島へお龍を連れて約三ヶ月間もの間、傷の湯治も兼ねて新婚旅行に出かけます。これは日本で初めての新婚旅行といわれています。これは今でも、ツアー会社が「龍馬新婚旅行パック」として販売しておりますので、これからご結婚される方は、ご検討下さい。(ツアーでは二泊三日程度です)

この龍馬の華やかなエピソードも、実際には傷を癒す為と、追っ手の恐怖から逃れる為だったと言われています。寺田屋ではよっぽど死を覚悟していたらしく、その後は寺田屋自体をあまり利用しておりません。
追っ手から逃れるついでに新婚旅行といった感じでしょうか?寺田屋の際のお龍の手際のよさ(裸で階段その後、薩摩藩邸へ急を知らせた)を龍馬が利用して、手元に置いた。というような穿った見方をしている人もいます。

それにしても、江戸時代に女性を連れて旅行するというのは、あまり考えられなかったことです。これだけとっても型破りな、既成の概念に囚われない性格といえるのではないでしょうか?
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# by outdoor-bu | 2007-01-18 08:56 | ryoma sakamoto

今日は、いろは丸事件を取り上げました。

1867(慶応3年)年4月19日、坂本竜馬が指揮する海援隊は大洲藩船「いろは丸」に武器・商品を乗せ長崎を出航しましたが、23日鞆港への回航途中、備後灘の六島沖の海上で紀州藩の「明光丸」と衝突、機関部に損傷を受け宇治島(広島県福山市走島町)の南方4km、水深27mの海底に沈没しました。

この事件後、坂本竜馬は「明光丸」の船長・高柳楠之助と、鞆港に近い真言宗・福禅寺の客殿対潮楼で6日間に渡り損害賠償交渉を行います。その対応を比較的分かりやすくまとめたものを見つけたので転記します。

〇慶応3年4月23日衝突。その夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆(とも)で談判。万国公法で決着をつけることを提案。
〇紀州藩明光丸、急用を理由に龍馬たちを残し長崎へ。龍馬たちも怒り長崎へ追いかけて談判再開。
〇航海日誌や談判記録を確保。
〇海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟を」と檄をとばす。重ねて航海日誌や談判記録の保全と確認を命令。
〇寺田屋へ一報「ちょっと忙しくなるが心配するな」
〇下関の伊藤助太夫(龍馬が家を借りている人)へ「家には誰も近づけないよう見張りをよろしく」
〇京都の出版元へ「万国公法」の印刷を依頼する。
〇紀州藩の船長らと交渉。以下の事を要求した。紀州藩は「大きい藩」ということを笠に着て威張っていたが、龍馬たちの言い分がもっともなので、タジタジとなり、病気だと言って逃げ回る。

 ●土佐の連中を放ったまま出港したのはけしからん!
 ●2度も衝突させた責任はどうなるのか!
 ●万国公法ではなく幕府の判断によって決着をつけるとは何事か!
 ●長崎で、海難事故審判に経験の深いイギリスの提督に裁いて決着をつけよう!

〇土佐藩から参政後藤象二郎ら応援に到着、交渉に加わる。龍馬も応援に感謝。後藤がやかましく責め立てたので、紀州藩も薩摩藩五代友厚へ仲裁を依頼。ほぼ1ヵ月後の5月28日か29日頃、賠償を支払うことで落着。
〇この間龍馬は世論を味方につけるため、長崎の繁華街で、「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」という歌を流行らせた。そのおかげで、長崎の町民たちが海援隊の人たちに、紀州をやっけろと励ましに来るなど大いに効果を上げた。
〇いろは丸事件で龍馬は以下にあげる現代の危機管理対策を見事にやっていき、一ヶ月間に上手に展開していて感心させられる。

 ●一戦交える臨戦体制
 ●世論操作と情報発信
 ●身内の安全確保
 ●筋を通した交渉
 ●強力な応援体制の確保
 ●交渉の結着点・結着対応などを決める

経営者として、感服する対応だと思います。企業の不祥事は大きく取りざたされますが、こんな対応であったなら文句もでないでしょうね。肝っ玉の据わった男です。
しかし、完璧すぎて龍馬が暗殺された時は、逆恨みした紀州藩の仕業では?とうわさされるほどでありました。「丸くとも一角あれや人心 あまり丸きは転び安きぞ」坂本龍馬の残した言葉といわれています。
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# by outdoor-bu | 2007-01-18 08:54 | ryoma sakamoto

先斗町

今日は、京都フリークなら一度は遊びに行っている先斗町(ポントチョウ)のお話し。

先斗町は江戸後期から花街として栄えていました。幕末は、土佐の暗殺者人切以蔵や薩摩の人切新兵衛などが暗躍した暗い歴史もありますが、今では狭い路地にきれいに清掃された通り、京都の夜の風情を楽しめるスポットになっております。

古くは都のはずれの河原町のさらに東に、鴨の河原を埋めて人が住みはじめた土地で、ポルトガル語のポント(=先端)が語源とか、高瀬川と鴨川にはさまれているので、皮と皮にはさまれたといえば鼓。鼓はポンと鳴るから、というのとか、諸説あります。

通りでよく目につくのは、千鳥のマーク。実際に昼間歩くと多くのこの千鳥マークを見かけます。この千鳥、花街のマークで、お酒を飲めば千鳥足という連想もあるうえに、本物の千鳥よりはかなり太って愛嬌があり、とても身軽に飛べそうな姿ではありません。そのため「よたよた千鳥」という愛称まである始末。さらに、土産物用にキャラクター化された千鳥などは、一層よたよた度が高くなっているようにも見えます。

来年は、相模原JCから10名以上が、日本JCへ出向者しております。早い人は水曜日から京都入りするとか?もし、先斗町で懇親を深める機会があれば、よたよた千鳥もかわいがってあげて下さい。
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# by outdoor-bu | 2007-01-18 08:54 | ryoma sakamoto

海援隊(←武田鉄矢じゃないよ)の巻

 元は、勝海舟の海軍操練所だが、池田屋事件(多くの志士が新撰組によって摘発・惨殺された)に海軍操練所のメンバーが関わっていると幕府から疑われ、海軍操練所は解散します。

 そこから新たに薩摩藩・越前藩から資本の援助を受けて、亀山社中とう長崎県の亀山に事務所を置く、日本で始めてのカンパニー、会社を設立。これが、日本では初の株式会社といわれています。

 その後、土佐藩の「土佐商会」の責任者後藤象二郎(のちに徳川慶喜に土佐藩代表として、大政奉還を建白)と手を組み、亀山社中は「海援隊」へ。これは、土佐藩の外部組織という形でした。社員の多くは、土佐藩の外部団体になることに反対でしたが、当時、社員の給料もろくに払えないような状況で、龍馬も苦肉の選択でした。

 一方土佐藩としては、薩摩・長州に大きく時勢で後れを取っている為に、当時維新の第一人者坂本龍馬を手中に納めることで、一躍政局に躍り出ようとしたのです。

 両者の利害は一致し、海援隊発足の直後の4月23日、海援隊の「いろは丸」と紀州徳川藩の「明光丸」が瀬戸内海の六島付近で衝突するという事故が起きました。船員・乗客こそ全員救出されたものの、いろは丸は沈没して全ての積荷を失ってしまいました。

 龍馬はすぐに談判(裁判)を起こして、前例のない裁定を巡って幕府の御三家と真っ向から対立したのです。江戸時代安定の頃なら、徳川御三家相手に有り得ないことです。普通は泣き寝入りでしょうね。

 しかし、海援隊側は「万国公法」を盾として争い、薩・長・土の後援もあって裁判に勝利、賠償金として約80000両を紀州藩に払わせました。この一件で龍馬と海援隊の名は広まり、後年の海難事故の判例ともなりました。

 そして、大政は奉還され、その一ヵ月後、坂本龍馬は謎の刺客に討たれます。

 主の失った、海援隊はであるが、龍馬生前から実務は同郷の岩崎弥太郎に任されており、後藤象二郎は、幕末に急激な洋装武装に掛かった費用などの借金を海援隊ごと、全て岩崎弥太郎に押し付けてしまいました。弥太郎は、紀州徳川藩との「いろは丸事件」の補償金8万両を元に借金を返済し、維新後の明治4年(1871)の廃藩置県によって正式に独立商社として成立しました。これが現在の三菱グループです。

 岩崎弥太郎は相当、金に細かく、そろばん弥太郎と言われるほどであったといいます。江戸期に実績を積み上げてきた三井・住友・安田などの大財閥と、裸一貫で明治からの創業となった三菱が肩を並べるまでに成長したのは、経済界における維新の奇跡とも言えるでしょうね。

 ちなみに、三菱のダイアモンドマークは、土佐山内家の紋「三葉柏」と岩崎家の「三階菱」を合成したデザインだそうです。
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# by outdoor-bu | 2007-01-18 08:52 | ryoma sakamoto

武士道精神

来年の1月20日(土)21日(日)は(社)日本青年会議所事業京都会議です。この京都会議には、相模原JCから出向している多くのメンバーが関わっています。そして、日本JCの新しい会頭が、会頭の新年の所信を述べる場でもあり、各種セミナーや総会が京都国際会館の各会場で執り行われます。

我々、2007年度広報・渉外委員会では、出向者支援と、LOMメンバーの研修、メンバー間の交流などを目的として、LOMメンバーの皆さんを京都会議へお連れします。

折角の2日間ですので、有意義に家族旅行や社員旅行では絶対に味わえない趣向を凝らしました。

最近、「武士道」という言葉がよく聞かれます。07年度会頭の立候補理由でも触れていました。武士道というと、新渡戸稲造著の「武士道」が有名ですが、本来の武士道という概念とはちょっと違うと評価されています。どちらかというと新渡戸の「武士道」はイギリス的な「ナイト」の意味合いが強いといわれています。

武士道とは、江戸時代260年間に培った精神です。これらが一気に華開いたのが、明治維新。この時代は多くの英雄、それも我々と同世代の青年が日本を良くしようと活躍します。自分の信じる志に向かって・・。

今年度池田会頭は、「この日本を良くする為なら、自分自身死んでしまっても構わない」という気持ちで、会頭に臨んだそうです。幕末の志士たちも同様に、いや実際に多くの命が失われました。それでも怯むことなく、日本を良くしようと駆け回りました。

そんな「この日本を良くしよう」という気持ちを京都会議で存分に勉強して頂き、メンバーでその経験を共有することでこれからのJC活動も有意義なものになると確信しております。ぜひ、多くのメンバーで京都会議へ行こうと思っておりますので、まだお悩みの方は、どうぞ’07広報・渉外委員会にだまされたと思って、「参加」にチェックの上、faxの返信をお願いします。絶対に後悔はさせません!1月のお忙しい時期、2日間を私たちに下さい!!

知ってました?12月9日10日に’07広報・渉外委員会は、すでに京都会議の下見を完了しております。皆さんに来ていただくべく、多くの工夫を凝らしています。この機会に是非!京都で会いましょう!!!
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# by outdoor-bu | 2007-01-18 08:50 | ryoma sakamoto

餅つきやるよ!

 場所は、小池設備本社前の駐車場で12月30日(土)14時ごろからはじめます。
寒中BBQも同時開催ですので、温かい格好でお越し下さい。お時間のある方は、昼前から準備をしてますので、お手伝いを御願いします。

 差し入れ歓迎!待ってるよ!
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# by outdoor-bu | 2006-12-30 17:00 | 活動告知

寺田屋襲撃事件

龍馬は、薩長同盟の二日後の1月23日。京都伏見の寺田屋に宿泊中、伏見奉行所の襲撃に遭います。その搦手の動員人数はなんと約100名!龍馬とその護衛者三吉慎蔵たった二人を捕獲する為に、伏見奉行所はこれほどの人数を動員しています。

深夜2時ごろ1階で風呂に入っていた龍馬の恋人「お龍」が異変を感じ(覗きか!?)、格子から外を見ると搦手が大勢いることに気が付きました。お龍は素っ裸のまま、2階の龍馬の部屋や飛び込んで注進しました。

龍馬は、袴もつける間もなく、高杉晋作に貰ったピストルを構え、三吉は槍の名手であった為、槍と刀を身に付け応戦します。この時期、西郷隆盛から「何かあったら薩摩藩士と名乗ってよい」と言われていた龍馬は、「我々は薩摩藩士である。なぜ、上意を受けるのか!?」と伏見奉行に言いますが、相手は容赦しません。

寺田屋は大乱闘になりました。龍馬のピストルは火を噴き、三吉の槍は次々と相手を倒していきますが、龍馬は相手の刀をピストルで受け損ねて、右手の親指と人差し指を負傷します。かなりの傷だったようで、指が取れかかっていたようです。

戦場が一息ついた時、三吉は「しかる時は、なお敵中に突き入りて戦うべし」と言いましたが龍馬は「この間に逃げよう」と言い、龍馬はピストルを捨て、三吉も持っている槍を投げ捨て、ふたりで裏階段を下りてみると、外の敵は寺田屋内部に気を取られ案外簡単に寺田屋を脱出出来たようです。このとき、隣家の戸締りを切り破り、(隣家に)挨拶をして小路に逃れ出で、しばらく両人とも息を休め、それより又走ったようです。

そして川端に材木置き場があるのを見つけ、その棚の上に両人とも密かに忍び込み、三吉が「ここでともに割腹しようではないか。敵の手に落ちれば見苦しい。」と言うと、龍馬は「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」と言ったといいます。このとき、龍馬の右手の傷は動脈を切られ、かなりの出血と、薩長同盟成立の為にほとんど寝ていなく、1月の寒い中、薄手の服装だった為、瀕死の状態で、あったようです。

龍馬にそのように言われた三吉は、川で染血を洗い、わらじを拾って旅人に身を変じ、伏見薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めました。
しかし、それより一足早く、お龍が伏見薩摩藩邸に報告に走り、龍馬の救援を求めていました。
薩摩藩は藩の旗印を押し立てて一個小隊を引き連れて龍馬の救出に向かい、無事に潜伏していた材木小屋から龍馬を助け出しました。じつに物々しく、幕府を挑発する行為ですが、幕府も薩摩藩と戦争になることを恐れて手が出せなかったといいます。
--------
当時、「武士道は死ぬことと見つけたり・・」が、主流の世の中。切羽詰ると、「死」を常に意識していた時代です。坂本龍馬も同様に、常に「死」を覚悟していました。『はてさて人間の一生というのは合点のいかぬものよ、 運の悪い者は風呂から上がる時に金玉をぶつけて死ぬものもある』
このように生死は自然現象だから、これを計算に入れていては、大事はできない。と考えていたようです。
死を怖がっていては、何も出来ない。しかし、万策残るうちは精一杯生きぬいてやろうという姿勢は、現代も、自殺者が後を絶たない状況ですが、共感を得られるのではないでしょうか?
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後日、龍馬は桂小五郎と再会した際、互いに無事を喜び合った時のエピソード

龍馬が桂に、「寺田屋にいなかったのは本当に幸運だ。おめでとう。」と言うと、桂は、「幸運だって?俺も一度は裸でご注進というありがたい目にあってみたいものだ。」
と言ったという。
桂にこのように言われた龍馬は、頭を掻きながらお茶を濁したそうです。ふだん硬いイメージの桂小五郎も、案外シャレたことをいいますね。
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# by outdoor-bu | 2006-12-23 17:00 | ryoma sakamoto

寺田屋お龍

※今回はちょっと手抜きで転記です。 小池

「寺田屋」お龍

慶応元年一月、薩長同盟を終えて寺田屋に投宿していた龍馬が襲撃された際に、風呂に入っていたお龍が幕吏に取り囲まれたのをいち早く知り、裸で二階の龍馬らに急を告げた。龍馬と三吉慎三は応戦し、お龍は伏見の薩摩藩邸に走り救援を求めた。

こうして難を逃れた二人は事件後、時を経ず中岡慎太郎の仲人(西郷隆盛説有)で結婚し(内祝言は元治元年八月という説有)西郷の勧めもあって薩摩へ湯治に出かける。これが日本初の新婚旅行だといわれている。

慶応三年九月、下関で龍馬に会ったのが最後となった。 
龍馬暗殺の知らせを下関の伊藤助太夫宅で受けたお龍は気丈に振舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供え号泣したという。

それからしばらく三吉慎蔵らの世話になっていたが、墓参りのため京都に向かった。近江屋に泊まり龍馬の霊を弔った。

明治元年七月、土佐の龍馬の実家に迎えられるが一年ほどで土佐を離れることになる。兄夫婦や乙女に疎んじられたためという説もあるが環境があまりにも違いすぎて水が合わなかったというところだろう。

土佐を離れて京都に帰り、東山の霊山のの麓に室屋を営んだ。そこは龍馬の墓のすぐ近くであり、墓守をして菩提を弔おうとしたのであろう。だが生活を維持できず、明治五年頃、龍馬の旧友を頼り上京する。

東京では香川敬三(水戸藩出身、陸援隊)らが持ち回りで世話をみてくれた。(晩年「優しくしてくれたのは西郷隆盛だけだった」と憎まれ口をたたいている)しかしいつまでも彼らの行為に甘えるわけにもいかず自活の道を求めて旅館の仲居などをしていたがその折用いていた変名が”つる”ではなかったかという。 

ついで、お龍は大道商人、西村松兵衛と再婚(入籍は明治八年)して横須賀に住んだが、失意を紛らすため大酒を飲み、酔うと口癖のように「私は龍馬の妻だった」とつぶやいたそうだ。この間、松兵衛との間に子をもうけたが残念ながら幼くして亡くしてしまった。

横須賀の生活も満足なものでなかったが、晩年は貧しいながら穏やかに暮らしたようだ。

明治三九年没
  「贈正四位坂本龍馬乃妻龍子乃墓」
龍馬の妻であることを明記するこの墓碑銘は、お龍にとって最高のはなむけになったことだろう。

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佐々木高行(土佐藩)はお龍の魅力を日記にこう記している。
  「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり」

破天荒な言動は、当時の女性からは大きくはみ出していたようで武勇伝には事欠かない。十八、九の頃、お龍の留守中に借金の証文を手にした悪党が現れ、妹君枝を大坂の女郎屋に、妹光枝は京都島原に連れて行かれた。それを知ったお龍は着物を売って金を作り、ふところに短刀をしのばせて大坂に飛ぶと刺青のあるやくざ相手に直談判した。「殺すぞ」と脅されても「殺せ。殺せ。殺されに大坂まではるばる下りておる。それはおもしろい。殺せ。殺せ」とわめき無事妹を助け出したそうだ。

あまりよい評判を聞かないお龍ではあるが「おりょうの面白さは龍馬の中にしか棲んでいない」
とは、司馬遼太郎氏の至言である。

http://www5.inforyoma.or.jp/~appli/monogatari/oryo.htm↑「龍馬物語」より転記(写真もあります。)
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# by outdoor-bu | 2006-12-23 11:15 | ryoma sakamoto

寺田屋お登勢とは・・?

「寺田屋お登勢」と言えば、幕末の志士の間では、有名人であった。

彼女は、勤皇の志士を献身的に庇護してくれると言うことであった。彼女は、人の世話をすることが道楽という、宿のお上にぴったりの人物であった。どんなに忙しくとも、頼まれ事は喜んで引き受けたという。

18歳で寺田屋に嫁いできたが、夫は35歳で亡くなってしまった。以後、ほぼ一人で船宿を経営した。火事で焼け出され、行く身寄りの無い「お龍(おりょう)」を坂本龍馬に乞われて、養子に受けた話しは有名である。

その他にも、捨て子も育てたらしい。夫との間には、一男二女があった。
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# by outdoor-bu | 2006-11-30 11:19 | ryoma sakamoto

さ~て来年のNHK大河ドラマは?

NHKの来年の大河ラマは、「風林火山」武田信玄を扱ったもののようです。
1963年から「日曜日のゴールデンタイムをNHKに!」とのコンセプトで時代娯楽番組が中心に放送が開始されました。

NHKの大河ドラマといえば、不祥事続くNHKの中でも、人気俳優の起用などで高視聴率を保っています。

しかしながら、毎年「当たり外れ」のあるのもまた事実。一般に人気のあるのが戦国時代モノ。一年を通じて平均視聴率が39.7%と言う驚異的な数字を残してトップなのが「独眼竜政宗」第2位が平均視聴率39.2%の「武田信玄」です。以下、第3位は「春日の局」32.4%です。

そして、実は坂本龍馬を取り扱った「竜馬がゆく」は1968年に始まり、平均視聴率14.5%。「新撰組」でさえも17.4%ととかく、幕末以降の歴史モノは視聴率が低調です。

それは、時代背景が一気に複雑になることとされ、お茶の間の娯楽歴史番組としては敬遠されるんだとか。皆さんはこの時期の日本史ってよく理解できていますか?

ちなみに大東亜戦争以降の昭和史以降は、NHKとしては、アンタッチャブルだとか・・。歴史外交問題は相変わらず複雑です。
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# by outdoor-bu | 2006-11-27 11:08 | ryoma sakamoto

幕末から地方分権を考える

江戸時代は、日本国内の旅行にもパスポートが必要でした。当時の江戸幕府は、今で言う地方分権の世界。隣の藩に行くにも藩へ届け出をして、許可を貰わないと行けません。いわゆる通行手形です。もし、勝手に行ってしまうとそれは脱藩といって、藩によって罰は変わりますが、まず見つかれば死罪。家族や親族にまで被害が及ぶ厳しいものでした。藩によって罰が変わるというのは、当時藩が大きな力を持っていて、刑法は今で言う県の条例程度で決めることが出来たのです。徳川幕府が江戸時代を統治しておりましたが、幕末辺りは諸外国から「諸藩の代表が徳川家」という位にしか見られていなかったようです。

最近こそ、地方分権が声高に叫ばれていますが、江戸時代の地方分権ではうまく行かなくなったので、中央集権の明治政府が出来上がりました。歴史は繰り返すといいますが、そんな江戸の視点から、地方分権を考えてみては?
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# by outdoor-bu | 2006-11-23 11:07 | ryoma sakamoto

今日はなんの日?

1835年の今日、今から171年前に土佐藩郷士坂本直足の次男として坂本龍馬が生まれたのが今日です。郷士と言っても、半分商家のようなもので、高知城下でも一二を争う裕福な家庭だったとか。

「世に生を得るは事を為すにあり」――超人的な働きで薩長連合を成立させ、大政奉還を実現させた幕末の志士、坂本龍馬は、1867年(慶応3)の今日、何者かに暗殺されました。この日風邪ぎみの龍馬は、京都・河原町の隠れ家近江屋で陸援隊長、中岡慎太郎と話し込んでいたところを、十津川郷土と名乗る刺客に襲われて殺されてしまいました。龍馬33歳、慎太郎30歳。志半ばの非業の死でした。

坂本龍馬が一体どんな人物だったかは、またの機会に・・。
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# by outdoor-bu | 2006-11-15 11:05 | ryoma sakamoto

ちょっと笑えたので、ご紹介。

暇で覗いたこのサイト。ちょっとおもしろかったのでご紹介します。
↑クリック!!最後まで見てね♪5分くらい掛かります。ボリュームは大きめで。
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# by outdoor-bu | 2006-11-05 10:32 | 徒然草・・

’06青根で逢おうね!無事終了!!

 活動報告が遅くなってしまいましたが、お蔭様で「青根で逢おうね!」も無事開催終了いたしました。多くの方に御参加頂き、総勢大人32名・子供22名の総勢54名で行なわれました。いや~楽しかったですね。

 小池家は金曜日の仕事終了後に現地入り22時ごろでしょうか。場所取りをしなくては・・と思って前泊しましたが、予想と反してキャンパーは三組ほど。これなら、場所取りは必要なかったかな・・。

 湿気が100%かと思うくらいでしたが、真っ暗な中カミさんと二人でランタンの明かりでテントを設営、暇だったので新調したタープも設営しちゃいました。初めてでしたが、案外簡単でしたよ。10分くらいで立ち上がりました。風も無かったのが幸いだったかもしれません。

 夜中に、佐々木君も駆けつけるということでしたが、都合が合わず翌日参加へ。初日の夜は、子供も粋の車で既に寝てしまっていたので、夫婦でのんびり。シンと静まり返った青根で、霧に巻かれてちょっと神秘的でした。

 朝になると、9時を過ぎた頃からどしどしとキャンパーが終結し、あっという間に青根はキャンパーでごった返しておりました。昨日のうちにタープを設営しておいて良かったです。ごった返すキャンプ場に広大な敷地を小池家で独占。さすがに、周りの視線が冷たかったです。でも、ここで死守しなくては!と、椅子やら鍋などを広く広げて皆さんの到着をお待ちしておりました。

 10時も過ぎると森さんがやってきてくれて、12時頃には佐々木君、秋本家も駆けつけてくれました。多勢に無勢で場所取りをしていたので、ほっとしましたよ!

 夕方になる頃には、続々とアウトドア部のメンバーも終結して、夕方の5時の時点ですでに30名を超えていました。
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↑多分、まだ三時ごろだと思いますが、朝から飲んでるとだいぶ気分も良くなっていました。

 子供たちは、新しい友達も古い友達も一緒になって公園へ行ったり、川へ降りたり、縦横無尽に駆け回っていました!
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↑今回は、初めての試みでダッジオーブンを利用して、「豚ロースの塩釜焼き」にチャレンジ!豚のうまみが塩釜に閉じ込められて、ほんわりとやさしい味に仕上がりました。簡単だし、これは病み付きになりそうです。

 晩御飯は、ごはんを炊いてキャンプの定番、カレーライスです。子供もそうですが、案外大人に人気!ごはんはお焦げがおいしい!
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↑男料理の定番カレー!普段あまり厨房に入らない人も、このときばかりは。

 夜は、子供たちが大花火大会。直前に花火の差し入れを頼んだら、みんな買ってきてくれました。お蔭様で大量の花火大会は夜更けまで続きました。
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↑火事かキャンプファイヤーか!?いや、花火です。きれいでしたよ。

 深夜夜が更けるにつれて、続々と集まってくる部員たち。自慢のタープに入りきれない程でした。遅い人は、朝方まで大騒ぎしていたとか・・(私は12時前に撃沈です)。近隣のキャンパーの皆さんにはご迷惑をお掛けしました_(._.)_
 アウトドア部の婦人部も立ち上がったそうで、おめでとうございます。部長は、小野さんの奥さん。朝まで大騒ぎ!(だったそうです)
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↑気持ちよさそうでしょ!?これでもまだまだ夕方でした。

 翌朝も、朝からぴーかん!!私も海パンを忘れてしまって我慢していましたが、我慢しきれずそのままダイブ。いやー最高に気持ちの良い川遊びでした。
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↑誰よりも子供たちが大はしゃぎ。大人も子供に負けていませんでしたが・・。
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↑川でションベンしてるのは、どこの子だ!?ってうちの子でした。すみません。
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↑子供が主役のコミュニティーが形成されました。

 夕方まで遊び倒して、恒例の記念写真。夜にホームシックに掛かってしまった、山田さんも日曜日に再度来てくれました。日曜日だけの参加者も居て、この時点でもまだ30人!
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↑夜も集合写真を撮っておけばよかったですね。昼間ですが、渋谷パパさん酔っ払ってお疲れ!?

 解散後は、いやしの湯でみんなでさっぱりして、帰りました。帰りの車は、いやしの湯の坂を上っている時点で既に子供たちは、疲れきって寝てしまいました。お疲れ様。

 子供たちはもとより、大人がたくさん遊べた「’06青根で逢おうね」でした!天気も良くて、最高でした。2年前の大雨の悪夢がうそのようです。来年は、山の探検やら、いろいろとやりたいことが一杯!また、’07青根で逢おうねでお会いしましょう!!
 
 

 
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# by outdoor-bu | 2006-09-21 15:20 | 活動報告